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2006年09月01日

2005年04月16日

演劇論 〜舞台芸術への諸念〜

娯楽として、時には教育として、人類の歴史は常に演劇と共にあった。「水は低きにつくが、文化は高きにつく」という。ギリシアを武力で制したローマも芸術の領域では制された。若干の例外を孕みながらも、演劇はこの2000年の間に、芸術として概ね発展してきたと言えるだろう。そもそも「発展」とは、「例外」即ち非発展的な過去に対する反動なのだ。

そして今や、ドラマそのものが「非発展的な過去」と見做されつつある。「ドラマ」とは、大雑把に言えば、始まりと中と終わりを持つ「物語」である。三単一のように厳格であったりしばしば支離滅裂であったりと構造の性質は多岐に渡るが、演劇の台本がドラマであることは旧来、当たり前過ぎて省みられることもなかった。ところが近年、恐らくはサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』を産声として、「ドラマでない」演劇が生まれ、忽ちのうちに演劇界に広まった。いわゆる「よくわからない舞台」は最早、珍しくも何ともなくなっている。

一体何が起こっているのか。早い話、一部の先駆的な観客たちによって、ドラマであること自体が飽きられ始めたのだ。「飽き」は反動となって作家たちを揺さ振り、作品をより高い次元に運ぶきっかけとなる(リアリズムの生誕もまた「リアルでない」演劇に対する反動であった)。故に、その生い立ちだけを見るならば「よくわからない舞台」は単なる一ジャンルではなく、ドラマを当然とする舞台を芸術として凌ぐものだと言えよう。そして現在、ドラマでない演劇を志向する演劇人・観客は、決して「一部」とは呼べない程の数に昇っている。

しかし、この風潮は、相変わらずドラマを描こうとする作家たちにそのドラマ性を省察させるという成果を上げると同時に、一方で真に「非発展的」な舞台をもこの世界にもたらした。「よくわからない」舞台が脚光を浴びる中で自由度が高まり過ぎて、志の曖昧な作家たちの間に「演劇はよくわからなくてもいい」という甘えた認識が生じたのである。元来、ドラマでない演劇を描く作家たちには確固たる意志があり、彼らの作品はドラマとしてまとまることを「積極的に」避けたからこそ価値があった。また、ドラマでない演劇が生まれるより前の時代には当然ながら優れたドラマ作品が多く存在し、現在も生み出され続けている。ところが、ドラマを描こうとして描けず(平凡になってしまい)、それならばと踵を返してドラマでない演劇に「逃げる」ことが近頃は決して珍しくなく、同類の作家同士で、あるいは身内客によって大抵それが許され、認められてしまうのである。ドラマなのかドラマでないのか、どちらかを目指すのか、選ばなければならないと言うのではない。が、ドラマ「くずれ」の演劇の横行を果たして野放しにすべきだろうか。ドラマでさえなければ、「賛否両論」という一見名誉な評価は、簡単に獲得できるのだ。

では、私自身がどうするのか。まず私はドラマくずれに落ちることだけはしない。そして、積極的にドラマを表現手段として選択する。「ドラマは終焉を迎えた」と語る人もあるが、私が最終的に目指すのは、彼らをも魅了するような究極のドラマである。そのためには、少なくともドラマ性の省察が不可欠であろう。ドラマを描きながらも「最早ドラマが絶対ではない」という理解を示さねばならないのだ。

ところで、「よくわからない演劇」が演劇という芸術をマイナーにしているという見方があり得るが、この見解は妥当だろうか。私が思うに、一因ではあるが、原因ではない(だいいち「演劇はマイナーだ」とよく耳にするが、小劇場で公演し、半数以上が身内客であるような小劇団がそれを嘆くのは、自分の今いる階層の認識がない限りいささか滑稽ですらある。インディーズのバンドが「なんで俺たちメジャーじゃないんだろう」と不思議がるようなものである)。そんなことではなくて、単に映画に圧迫されているだけだと私は見ている。基本的に人間は安くて面白い作品を観たがるものだから、一般的に映画が選ばれるのはまったく自然なことだ。映画の方が安いし、面白い可能性が高い。次の土曜日に発表される日本中の公演からクジ引きで一つを観に行けば、8割方は損をした気分になるだろう。元より映画を含め、今の日本の娯楽は飽和状態である。わざわざ演劇を選ぶ理由は少ない(ライブであるところが演劇の良さだという。だがそれと等価の「良さ」なら他の芸術も持っている)。一般客がなかなか劇場に足を運ばないことを、「演劇がマイナーである」所為にしたくなるのも無理はない。確かに演劇は、どちらかと言えばメジャーではない。しかし、真にマイナーであるのは、演劇ではなく自分の劇団なのだ。

尚、ネガティブな考えばかり書いたが、これらは全て戦うための諦観であることを強調しておきたい。「仕方がない」とは、「それでいい」という意味ではない。
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2005年04月15日

活劇論

活劇とは立ち回りの場面を主とする舞台のことである。たとえ作り手の側に「見せ場」という程の意識がなくても、観る側からすれば立ち回りの良し悪しは舞台全体の印象に少なからず作用する。立ち回りは原則として物語上の必要に迫られて置かれるはずのものだが、楽器の演奏のように特殊な技能を要し、他の場面と全く同等に取り扱うことはできない。

立ち回りの段取りのことを「手」もしくは「手付け」という。まず演出家が指導者(殺陣師やアクションコーディネーター等と呼ばれる)に大まかな展開や動線、人物の性質等を伝え、指導者はそれに基づいて手を構成し、俳優に指導する。現在、ある程度の権威ある指導者や養成所はあっても、手の構成法にいわゆる「基礎」として君臨するものはない。小説や戯曲の書き方と同じである。そのため、上演団体内の演出家や俳優が指導者を兼任し、独学で手付けを行うことも少なくはないと思われる。指導書やワークショップでもよくいわれることだが、手はなるべく平易に、作る側としては少々地味に感じる程度に構成するのが望ましい。何故なら、手が複雑になるほど完成させるのは難しくなり、華麗な手よりも完成度の方が見せる段階に至っては重要だからである。また、平坦な構成の中で少し凝った手を仕込むと、全体にメリハリをつけることができる。

俳優は自発的に修練を積むべきであるが、立ち回りに関しては磨くべき要素の優先順位が他の場面とは逆になる。すなわち、一般的にはまず精神的な要素(順応と集中:演技論1参照)が十分に準備されてから表現上の問題に望むことになるが、立ち回りにおいては第一に技巧に磨きをかけねばならず、その上で「役として」演じることを考える、という順序になる。立ち回りを充てられる人物は、戦闘の心得を持っていたり、戦闘が生活の一部になっていたりすることが多い。そのような人物を演じるには、どんなに内的な動機が鮮やかに生まれていても、実際の行動に技術が伴っていなければ決して信用されない。その人物が戦闘のプロではないという場合も、特殊な才能があったとするならば同様である。但し、まったくの一般人が戦わざるを得なくなったという状況であるなら、当然大した技巧は求められないが、その分立ち回りが独立的に見せ場となることもない。

立ち回りを演じる上で最も失われがちで、かつ最も大切なものは臨場感である。段取りを追っているように見られてはならず、あたかもその場で考えて動いているように見せなければならない。そのために必要なものは、正確さと緩急と俳優の精神的な余裕である。まず何よりも立ち回りは正確に演じられねばならない。これは事故を防ぐためにも重要であるし、正確さとはつまり美しさでもある。敢えてスローモーションで演じてみると、どの程度正確さが身についているかがわかる。さらに、武器(得物という)を用いる場合、熟練した俳優ならばその武器をパントマイムで代用しても舞台で映えることができる。次に、その戦闘が真実であるならば、テンポが一定になるはずはない。激しく攻め立てる、相手の気配を探る等の局面に応じて、緩急が生まれるはずである。そして、「その場で考えて動いている」ように俳優が自己演出するには、何よりも精神的な余裕が必要である。過度の緊張や苦手意識はすぐ見た目に表れるものだ。精神的な余裕は、正確さと緩急を支えるものでもある。余裕を持つためには、実際に舞台で演じる以外の手を稽古に取り入れると良い。「場数」が重要なのは、立ち回りとは関わらない時と同じである。
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2005年04月14日

戯曲論2 〜劇作の深刻性〜

戯曲は常に舞台を先導するものであるとは限らない。古来、西欧が戯曲中心的であるのに対し、日本の演劇は俳優やその身体に重きを置くといわれる。無論、この対比は最早古いものであり、戯曲よりも俳優を重視する傾向は今も強まりつつある。だが、ここではあくまでも戯曲が中心となって作られる舞台を対照として話を進める。

作品がドラマである限り、客の視線はまず戯曲の物語性に向けられる。「どう」表現されたかより、「何が」表現されたかという点が先に話題になるのだ。稽古の過程においても、俳優の行動の、少なくとも結果的な面は全て戯曲によって運命づけられており、作家か、改定の権利を持つ演出家に認められない限りそれを変えることは許されない。故に、舞台の成否は戯曲の良否によって大きく左右される。優れた戯曲が拙い演技・演出によって台無しにされることはあっても、未熟な戯曲ではどんな名優・名演出の手にかかっても決して名舞台が生まれることはない。

さらに、戯曲の質は俳優の経験値に強く影響する。俳優を最も成長させるのはやはり舞台を踏むことであるが、戯曲がよく練られていて、追求し甲斐があるほど、俳優にとって貴重な経験となる。俳優の経験値に一番強く作用するのは結局のところ演出家だが、戯曲の影響も見て見ぬフリはできない。また、現に、俳優の演技の良し悪しは実は戯曲に端を発しているということも多い。

戯曲は舞台の核たるものである。それ故に、その完成度の高低や魅力の大小を疑問視することには大きなリスクが伴う。しかし、だからこそ、戯曲の完成度や魅力について、ひいては上演に値するか否かを自明のものとせずに、公演に携わる全員が、殊に上演内容にはあまり関わらないプロデュース側の人間が、厳しい目をもって見つめ直さねばならない。
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2005年04月13日

戯曲論1 〜戯曲の三要件〜

俳優に求められるものとして集中力・身体能力・順応力の3点を挙げたが、ここでは戯曲にあるべきものを同様に3点、提案したいと思う。俳優については「要素」といったところを「要件」としたのは、戯曲の及ぼす舞台全体への影響は、俳優のそれよりも強いからである(このことは「戯曲論2」において後述する)。尚、ここに提案する要件はいずれも、その戯曲がドラマを基本とする場合に限る(「ドラマ」の問題は「演劇論」にて扱う)。



 1.日常性

舞台は非日常的な空間であり、演劇は非日常的な行為である。舞台作品は程度の差こそあれ、ある特殊な状況を提案しており、客もまた概ねそれを期待して劇場に足を運ぶ。それでも、日常性は劇作において最初に配慮されるべき課題である。

何故なら、客はただ一方通行的に劇世界を受け入れるのではなく、個人の日常と照らし合わせながら舞台を観察しているからである。それは観劇上のコツでも作法でも何でもなく、単にそうせざるを得ないのだ。どんなに客観的になろうとしても、せいぜいその個人のイメージの中の「客観的な」見方しかできない。演劇はそれ自体非日常的なものだが、だからと言ってそこに日常と通じるものを見つけられなければ、客は劇世界に足を踏み入れたり、ましてや何かを受け取ったりすることはできない。日常性を欠いた舞台は、橋のない堀に囲まれた家のようなものである。

日常生活を描かねばならないというのではない。自分と関わりのあるものとして、舞台が客の目に映れば良いのである。そのための素材は実に多種多様である。登場人物の性質や行動が共感の対象となることもあれば、世界観やメッセージ性が思考を刺激する場合もあるだろう。但し、抽象的な繋がりは結果的に現れることを薄々期待しても許されるという程度のものであり、劇作において意識的に込めるべきなのは、具体的で小規模な日常性である。概して、具体的であるほど効果は高い。

近年、entertainmentという言葉が流行している。演劇のみならず映画や文芸の分野でも一つのキーワードとなっているが、私はこの言葉が些か思慮の浅い扱われ方をしているように感じている。entertainmentとは「娯楽」という意味であり、これを目指すとはすなわち「人を楽しませる」作品を作ろうとすることであるが、「人を楽しませよう」という考えは「楽しければいい」あるいは「自分が楽しければいい」という発想に転じる危険性を常に孕んでいる。そもそも、多くの人を楽しませることは決して容易なことではない。その認識があった上で、楽しませた先に何を与えられるのかが検討されるべきではないだろうか。特に、特殊性の色濃い設定を持つファンタジー的な作品に対しては、日常と通じるものが果たしてそこにあるかと問いたい。極端に言えば、ファンタジーに登場する事物は例外なく、現実世界に存在する事物のメタファーでなければならない。


 2.非日常性

十分な日常性が保たれている限りにおいて、非日常性はやはり舞台に必要なものである。とは言え非日常性は、多くの客や作家にとって演劇と関わろうとする動機であろうから、わざわざ指摘する必要もないのかも知れない。

それでも敢えてここで強調するのは、非日常性が大きな役割を持つからである。非日常性には、作家のしばしば個人的過ぎる思想・感性に一般性を与える機能がある。作家の中に渦巻くものも作家個人の日常から生まれるが、それを表現する媒介は日常から距離を取ることで、ある程度受け入れが容易になる。配慮されるべきは戯曲を読む俳優も舞台を観る客も、作家にとっては他者であり、なおかつ複数の存在だという点である。日常性に偏り、非日常性に欠ける場合、単につまらないだけでなく、作家と近しい日常を背負っていれば受け取り易い分そうでなければよくわからないという格差が広く生じる。



 3.優越

劇場では作り手と受け手とがはっきりと分かれている。ところが、観客席に座っている中には自身が演劇と携わっている客も決して少なくはなく、そうでなくても人間は誰しもが表現者であり得る。そのため、劇場はある意味において戦場である。

客の表現者としての自覚の程度にもよるが、原則として舞台上に繰り広げられる全ての表現は、客の持つセンスを満足させるか、圧倒しなければならない。殊に、戯曲の構成や言葉遣いは俳優の努力ではどうにもならない部分である。僅かでも「自分の方が巧く書ける」、「自分にも書けそうだ」と感じさせてはならない。この雑念は感受を薄れさせるのみならず、有料の公演であれば怒りすら生むことがある。無論「自分には書けない」と思わせることが目的にはなり得ないが、客が優越感を懐いてしまうことにメリットは何もない。
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2005年04月12日

演技論2 〜俳優の二面性〜

俳優術を考えようとする過程で、スタニスラフスキー・システムを見過ごすことはできない。これは1898年にモスクワ芸術座を創設したK・S・スタニスラフスキーの開発した俳優育成のシステムであり、「紋切型」の演技を排し、舞台に「真実」を作ることをテーマとし、今日相当数の演劇団体がこのシステムやシステムから派生したものを活用している。

演技論1(俳優の三要素)で述べたことも、主要な発想はスタニスラフスキー・システムの指導に賛同している。スタニスラフスキーは「俳優は情緒について心配すべきではない。情緒はひとりでにやって来る」「情緒を待つな、早速、行動を始めよ」と教えた。また、俳優の心身はよく訓練され、緊張が解除されねばならないとし、俳優の精神が役としてのものとより良く演じようとする俳優自身のものとに分裂することも認めた。前回述べた考えは、非常に綿密に構成されたスタニスラフスキー・システムの中から、私が現実的かつ有用と見做した要素を抽出し、自論を加えて簡潔に再構成したものだとあるいは言っても良い。

さて、これは私なりの解釈だが、スタニスラフスキー・システムは「俳優が一貫した人格を持つ人間を演じること」を前提としている。しかし、近年の戯曲の登場人物は必ずしも、一貫した人格を持った人間であるとは限らない。多重人格もあり得るという話ではなく、個人の思考回路(それがどんなに入り組んでいようと)で出力可能な行動が全てではないということである。例えば、モノローグ一つにしても、それは人間の生活の中の行動ではない。

戯曲や演出家の求める舞台上の出来事は、登場人物の人格によっては裏づけ切れないものを含むことがある。従って、俳優は予めそのことを認識し、人格を根拠として行動する側面と、それ以外の動機から行動を起こす側面とを兼ね備えなければならない。私は個人的に、前者を「アクターとしての側面」、後者を「パフォーマーとしての側面」と呼んでいる。



演技論1との関連を明らかにし、話を整理するため、俳優の集中力が割り振られ得る対象をここに並べてみることにする。

 A.役の人物が集中しているはずの事柄(感情や行動の理由となるもの)
 B.決まり事(セリフ・イリハケ等の段取り全般)
 C.演技の調整
 D.パフォーマーとしての行動

スタニスラフスキー・システムに従って考えればAが「役の精神」、B・C・Dが「俳優の精神」に相当するが、A・B・Cはその役が一貫した人格を持った人間でしかない場合も必要となるので、これらへの集中は全てアクターとしての機能に分類している。

稽古の初期には自然とB・Cへの集中が比較的強めになるだろう。それから先はやはり状況次第である。人間中心のドラマであればAへの集中が強められるべきであろうし、人間としてではない行動が求められる時は当然Dへの集中が必要となる。立ち回りのような特殊な技術を用いて演じる場合は、稽古の終盤までCへの集中を多めに充てなければならないだろう。但し、段取りはできる限り早く心身に覚えさせ、Bに対しては最低限の意識配分で済ませるのが望ましい。
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2005年04月11日

演技論1 〜俳優の三要素〜

俳優には多くが求められる。何を俳優に求めるかは、脚本や演出、劇団によって異なるだろうし、数え上げようとすればキリがない。かと言って「俳優って大変だよね頑張ろうね」という話をしてもそこには0未満の価値しかないので、私なりに、個々の舞台の性質を問わず普遍的に俳優に求められると考える特に重要な要素を3点、ここに並べてみようと思う。



 1.集中力

集中とは、集中力の絶対的な強さと、集中力をコントロールする能力によって成り立っている。集中力の総量は体調や環境によって上下するが、「集中しよう」と努めるだけでもかなりの差が生まれる。また、訓練によって増やすことが可能である。同じく、集中力をコントロールする能力も訓練や経験によって得ることができる。

では、何故俳優に集中力が必要なのか。生きた人間は、図らずとも今起きている事柄に集中している。例えば、誰かと会話をする時は、人の意識は「聞くこと」と「考えること」に向けられる(会話をしつつも上の空であるという場合は、考える方により強く集中している)。ところが舞台には、台本に書かれたセリフを始めとする数多の決まり事があってそれらにも意識を分配せねばならず、さらには緊張が集中を妨害する。生きた人間にあるべき集中を行うには、自然に演じればいいという誤解を排し、能動的に集中力を高める必要があるのだ。

次に、集中力は適切にコントロールされなければならない。俳優は、「役の人物が集中しているはずの事柄」と同時に、先に述べた「決まり事」に加え、自分の演技の調整にも意識を注がねばならない。どの問題にどれだけの意識を振り分けるか、それは状況次第で様々だが、舞台という現実に支配されていつの間にか複数の問題を同時に意識させられるのではなく、俳優は自分の集中力を自律すべきである。これは一見、俳優の精神を拘束する複雑な課題のようだが、自分の集中力を自在に操れることほど俳優を自由にするものはないと私は考える。コントロールの能力に欠ける場合、俳優は演出家の注文に応えようとする度に、あるいは自分の独創性を発揮しようとする度に役としての集中を失ったり、逆に役としての集中を守ろうとするあまりに自己中心的で融通の利かない演技に陥ったりする。

補足すると、「役が集中しているはずのこと」以外の点に意識が回されていることは当然、客に覚られてはならない。この秘密が垣間見えた瞬間、舞台と客席の空間は断絶される。が、自分の演技に調整を加えるには、思いのほか強い集中力が要されるものである。



 2.身体能力

俳優は表現者であるが、表現しようという気負いは時に、演技を安っぽい、幼いものにしてしまう。役が一貫した人格を持つ人間であるならば、表現すべき第一の要素は感情であるが、感情そのものをイメージしたり、念仏のように唱えてみても、演技は決して真実味を帯びない。前述の「役としての意識」は、感情自体ではなく感情の理由となるものの方に全て向けられるべきである(この問題は「演技論2」でも取り扱う)。

確固たる理由がそこにあれば、結果はおのずと生じる。だが、この段階ではまだ俳優の個人的な表現に過ぎず、客に対して十分に、効果的に伝えるということはまた別の課題である。例えば、悲しくなる理由が俳優の中に成り立ち、俳優自身には悲しみを表現できたという手応えがあっても、客の方にはまったく伝わっていないということは往々にしてある。それは、表情の変化が乏しい所為かも知れないし、身振りが硬い所為かも知れない。もっと単純に、セリフが聞き取り辛い所為かも知れない。原因は幾通りも考えられるが、俳優が表現を行う媒介としては自分の身体以外にあり得ず、身体の欠陥(多くは「癖」と呼ばれる)を除き、磨きをかけることで、表現は客にとって受け取り易いものとなる。

「伝わらない」と稽古場で見做された時、「感情を増幅せよ」と役者に指示することがあるが、私はこの策には反対である。意識は感情の理由にのみ注がれるで、感情そのものを相手取ったが最後、演技はたちまち滑稽な、いわゆる「嘘っぽい」ものになる。感情はあくまで自然に生まれるものであり、いじる必要はない。見つめ直すべきなのは、媒介となる身体の機能である。大概、想像以上に自分の声は陰鬱としており、体は硬直している。

演技の調節にも意識が回されねばならないと先に述べたが、ただ意識するだけで実際に調節できるとは限らない。調節しようとしてできることもまた、身体能力の一つだと言える。

また、身体能力は集中力に深く関係している。肉体的なスタミナや瞬発力は、集中の持続や強度に影響を及ぼす。一般人の役だからと言って、一般人並の身体で済むということはない。

さらに、俳優は己の名誉にかけて、独創的でなければならない。その舞台でその役を演じるのが自分でなければならない理由を、求めない俳優はいないはずである。単なる癖とは異なる、苦心せねば得られない独創性を俳優が持つならば、演出家はそれを活かすべきである。



 3.順応力

いくら高い集中力と身体能力を秘めていても、俳優の本心が劇世界に馴染んでいなければ、その力は決して十分には発揮されない。ここでいう順応力とは、どんな劇世界にもすぐ馴染めるようなプライドの低さではなく、本心から馴染めるように行動する力のことである。

あるセリフが納得できないなら、それがどんな些細なものでも本心が納得するまでは、演出家の説明か作家の改訂を求めるべきである。ある行動の理由が漠然とし過ぎていると感じたら、やはり演出家や作家に要求を出すか、あるいは自ら構築すべきである。劇世界に魅力を感じないという最も絶望的なレベルの問題を抱えているならば、周囲に説得を乞うなり少しでも魅力的な部分を探すなり、とにかく何かしらの行動を起こすべきである。無論、妥協が必要でないということはあり得ない。しかし、何とか歩み寄ろうという気概が前提にない限り、妥協はする方もされる方もただ不快なものにしかなり得ない。

一方で、矛盾するようではあるが、俳優はその舞台が自分の表現の場であるという認識を、作家や演出家と限りなく近いレベルで持つことが望ましい。無論、その認識が強いほど対立する可能性は高くなる。しかし、もし他人事と思うなら、それは妥協以前の問題である。
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