早速この一文「の」を多用し過ぎていて、
一般的には「正しくない」文章なのだけど、
これはちょっとふざけてみただけで意味はない。
「なんでふざけるの?」と訊かれても困ってしまう。
劇団バッコスの祭は去年の池袋演劇祭で、
「としまテレビ賞」という賞を受賞した。
審査員は豊島区民から一般公募で選ばれた人たちで、
各公演10人が割り当てられ、10点満点で評価を行う。
賞の基準はその数値のみだが、感想文も添えられる。
後日その感想文が送られてきた。
審査員の皆様のおかげで受賞できたことは重々承知の上で、
敢えて反論めいたことを書くことを試みる。
「ことを」が連続して、これもまた下手な一文。
「言葉が今風なのが気に入らない」という意見があった。
確かに僕は今風のセリフを書く。
別に超イマドキのコトバを並べているわけではなく、
今の僕の年代が普通に話す言葉で書いている。
前回のような歴史劇でも構わずそうする。
以前はそうしないこともあったが、
こちらの方が書き易いし、意味のある脚本になると思っている。
念のため言っておくと、僕が言いたいのは、
「今風」の言葉でしか良い脚本は書けないということではない。
単に、僕自身が今こう書きたいと思っているだけだ。
他の人でもやれること、他の人の方が得意なことを、
わざわざ僕がやることはない。
まず「今風の言葉」を「現代の日本の若者の口語」と定義する。
では「今風の言葉」でない言葉とは何だろう。
3種類に分類してみる。
A:現代の日本以外の言葉
B:現代の日本の若者の書き言葉
C:現代の日本の若者以外の言葉
Aは、乱暴に言えば要するに古典っぽい言葉全般である。
訳しても元の言語の雰囲気は残るものなので、
海外作品の日本語訳も当然これに含める。
僕が今のところ世界一好きな戯曲はイプセンの『人形の家』だけど、
あの調子で僕が書いてもまともなものにはならないと思う。
Bは、若者がメール等で使う言葉、ではなく、
「若者の話し言葉だと勘違いされた言葉」である。
これはかなり広範囲で見かけられる。
とりあえず男子は滅多に「だぜ」って言わないし、
女子は絶対に「わよ」とか言わない。
母親未満の世代で終助詞「わ」を使う人を少なくとも僕は知らない。
(かく言う僕も前回「わ」を書いて辻に文句言われているので、
本当はデカい口は叩けない。
でもそこで文句言うあたり、辻は良い役者だと思う)
Bだったら即アウトなのか、と問われれば別にそこまでは言わない。
僕の好きな漫画家も、何人もが余裕で「わ」を使っている。
でも、ひぐちアサ・安野モヨコなど最強クラスは使わない。
Cは「若者より上の世代の口語」になるわけだが、
まだ僕は「若者」のつもりなので、どういうものだかわからない。
わからないけれどそこまで違うものでもない気がする。
歳を取ったら話し方は変わるものだろうか。
60歳を迎えた日を境に「わしは〜じゃ」口調で喋り出す、
なんてことは決してあり得ないはずだ。
何より僕の脚本を演じてくれる役者たちは、
基本的にみんな日本の現代の若者なのであって、
普段の言葉で話すのが一番リアリティがある。
慣れない言葉遣いに慣れることなんかに情熱を注いでほしくない。
「自分と違う人間を演じる」というのが、
役者の悦びの一つではあるのかも知れないが、
あまり差のあり過ぎる「変身」は役者を殺してしまうと考える。
僕はかつて、
「中学生から大人(4〜50代)まで味わえる芝居を創りたい」
と言っていて、
今もその気持ち自体にあまり変わりはない。
しかし、
「演劇は演劇らしい言葉遣いじゃないと許せない・けしからん」
という人にまでは、
正直届けるのは難しいと思ってしまわざるを得ない。
縫えるだけ縫いたいとは思います。
しかし最近思うのは、
対象を無尽蔵に広げ過ぎるのは結局誰も本気で相手にしてないのと同じではないか、
ということなのですよ。
日常会話でバリバリ「わ」をつけてしゃべっています。
例えば、「あ、それ、私がやるわ。」とか仕事中に言います。
冷やかしでもギャグでもなくて、自分にとって自然なんです・・。
30代だと使う人、時々いると思います。
あとはたぶん、年齢だけじゃなくて、育った環境とか、地域なんかも影響があるのではないでしょうか?
周りに「わ」を付けて喋る人が多ければ、ごく自然に自分もそうなるでしょうし。
そう考えると僕が「現代の日本の若者の口語」と定義したのは、
「現代のとりあえず東京のおよそ20代以下の口語」といった方がいいのかも知れません。