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2005年04月11日

演技論1 〜俳優の三要素〜

俳優には多くが求められる。何を俳優に求めるかは、脚本や演出、劇団によって異なるだろうし、数え上げようとすればキリがない。かと言って「俳優って大変だよね頑張ろうね」という話をしてもそこには0未満の価値しかないので、私なりに、個々の舞台の性質を問わず普遍的に俳優に求められると考える特に重要な要素を3点、ここに並べてみようと思う。



 1.集中力

集中とは、集中力の絶対的な強さと、集中力をコントロールする能力によって成り立っている。集中力の総量は体調や環境によって上下するが、「集中しよう」と努めるだけでもかなりの差が生まれる。また、訓練によって増やすことが可能である。同じく、集中力をコントロールする能力も訓練や経験によって得ることができる。

では、何故俳優に集中力が必要なのか。生きた人間は、図らずとも今起きている事柄に集中している。例えば、誰かと会話をする時は、人の意識は「聞くこと」と「考えること」に向けられる(会話をしつつも上の空であるという場合は、考える方により強く集中している)。ところが舞台には、台本に書かれたセリフを始めとする数多の決まり事があってそれらにも意識を分配せねばならず、さらには緊張が集中を妨害する。生きた人間にあるべき集中を行うには、自然に演じればいいという誤解を排し、能動的に集中力を高める必要があるのだ。

次に、集中力は適切にコントロールされなければならない。俳優は、「役の人物が集中しているはずの事柄」と同時に、先に述べた「決まり事」に加え、自分の演技の調整にも意識を注がねばならない。どの問題にどれだけの意識を振り分けるか、それは状況次第で様々だが、舞台という現実に支配されていつの間にか複数の問題を同時に意識させられるのではなく、俳優は自分の集中力を自律すべきである。これは一見、俳優の精神を拘束する複雑な課題のようだが、自分の集中力を自在に操れることほど俳優を自由にするものはないと私は考える。コントロールの能力に欠ける場合、俳優は演出家の注文に応えようとする度に、あるいは自分の独創性を発揮しようとする度に役としての集中を失ったり、逆に役としての集中を守ろうとするあまりに自己中心的で融通の利かない演技に陥ったりする。

補足すると、「役が集中しているはずのこと」以外の点に意識が回されていることは当然、客に覚られてはならない。この秘密が垣間見えた瞬間、舞台と客席の空間は断絶される。が、自分の演技に調整を加えるには、思いのほか強い集中力が要されるものである。



 2.身体能力

俳優は表現者であるが、表現しようという気負いは時に、演技を安っぽい、幼いものにしてしまう。役が一貫した人格を持つ人間であるならば、表現すべき第一の要素は感情であるが、感情そのものをイメージしたり、念仏のように唱えてみても、演技は決して真実味を帯びない。前述の「役としての意識」は、感情自体ではなく感情の理由となるものの方に全て向けられるべきである(この問題は「演技論2」でも取り扱う)。

確固たる理由がそこにあれば、結果はおのずと生じる。だが、この段階ではまだ俳優の個人的な表現に過ぎず、客に対して十分に、効果的に伝えるということはまた別の課題である。例えば、悲しくなる理由が俳優の中に成り立ち、俳優自身には悲しみを表現できたという手応えがあっても、客の方にはまったく伝わっていないということは往々にしてある。それは、表情の変化が乏しい所為かも知れないし、身振りが硬い所為かも知れない。もっと単純に、セリフが聞き取り辛い所為かも知れない。原因は幾通りも考えられるが、俳優が表現を行う媒介としては自分の身体以外にあり得ず、身体の欠陥(多くは「癖」と呼ばれる)を除き、磨きをかけることで、表現は客にとって受け取り易いものとなる。

「伝わらない」と稽古場で見做された時、「感情を増幅せよ」と役者に指示することがあるが、私はこの策には反対である。意識は感情の理由にのみ注がれるで、感情そのものを相手取ったが最後、演技はたちまち滑稽な、いわゆる「嘘っぽい」ものになる。感情はあくまで自然に生まれるものであり、いじる必要はない。見つめ直すべきなのは、媒介となる身体の機能である。大概、想像以上に自分の声は陰鬱としており、体は硬直している。

演技の調節にも意識が回されねばならないと先に述べたが、ただ意識するだけで実際に調節できるとは限らない。調節しようとしてできることもまた、身体能力の一つだと言える。

また、身体能力は集中力に深く関係している。肉体的なスタミナや瞬発力は、集中の持続や強度に影響を及ぼす。一般人の役だからと言って、一般人並の身体で済むということはない。

さらに、俳優は己の名誉にかけて、独創的でなければならない。その舞台でその役を演じるのが自分でなければならない理由を、求めない俳優はいないはずである。単なる癖とは異なる、苦心せねば得られない独創性を俳優が持つならば、演出家はそれを活かすべきである。



 3.順応力

いくら高い集中力と身体能力を秘めていても、俳優の本心が劇世界に馴染んでいなければ、その力は決して十分には発揮されない。ここでいう順応力とは、どんな劇世界にもすぐ馴染めるようなプライドの低さではなく、本心から馴染めるように行動する力のことである。

あるセリフが納得できないなら、それがどんな些細なものでも本心が納得するまでは、演出家の説明か作家の改訂を求めるべきである。ある行動の理由が漠然とし過ぎていると感じたら、やはり演出家や作家に要求を出すか、あるいは自ら構築すべきである。劇世界に魅力を感じないという最も絶望的なレベルの問題を抱えているならば、周囲に説得を乞うなり少しでも魅力的な部分を探すなり、とにかく何かしらの行動を起こすべきである。無論、妥協が必要でないということはあり得ない。しかし、何とか歩み寄ろうという気概が前提にない限り、妥協はする方もされる方もただ不快なものにしかなり得ない。

一方で、矛盾するようではあるが、俳優はその舞台が自分の表現の場であるという認識を、作家や演出家と限りなく近いレベルで持つことが望ましい。無論、その認識が強いほど対立する可能性は高くなる。しかし、もし他人事と思うなら、それは妥協以前の問題である。
posted by 森山智仁 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 企画:短期集中小論文連載 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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