台本を書く合間に、村上春樹の『海辺のカフカ』を読んでいる。
まだ序盤である。
さくらさん登場。
ほら出た、と僕は思う。
村上春樹には(もう「村上春樹には」と書く)すぐ女が寄ってくるのだ。
水が低きに流れるが如く。
僕に村上春樹をすすめてくれる知人は、はっきり言ってとてもモテる人だ。
彼には、僕がなんで女のことでいちいち引っかかるのか、きっと理解できないだろう。
否、推し量れはするだろうけれど、共有はできないだろう。
顔かたちに恵まれなかった人は、多分、大抵は学生時代にそのコンプレックスを克服する。
否、克服できたことにする。
「顔かたちが悪いこと」よりも「卑屈になること」の方がより大きなマイナスだと学ぶからだ。
卑屈さというものは一個人の性質に留まらず、どうやら公害になってしまうらしいのである。
やがて、自分が思っているほど顔かたちが人生の重要項目ではない(正確には、そうではないことにして差し支えない)ということを理解する。
顔かたちが性的魅力の大部分を占めるという考え方もナンセンスであろう。
大変整っているのに何故かびっくりするほどモテないという人もいるだろう。
だが「性的魅力とは何か」まで考え始めると話が広がり過ぎる。
要するにモテる人はモテるということであり、彼らの顔かたちは「少なくとも悪くはない」。
(顔かたちだって後天的要素が相当ある、ということもいっそここでは考えない)
どうやら、人生においては、すっかり忘れた頃に、コンプレックスと再会することがあるらしい。
(村上春樹を読んでいて、ではない。
再会のきっかけはまったく無関係なところにある。
ただ、この記事を書こうと思ったきっかけが村上春樹だ)
再会してしまったことで、途端に不幸になったわけではない。
書きたい原稿がたくさんあるし、原稿を書くにあたって顔かたちはまったく影響を及ぼさない。
ただ、ある人(人々)と僕は、僕が思っていたよりずっと距離が離れていたらしいのである。
そのことに僕は少なからず動揺した。
ボクサーにとってアッパーカットは特別難しいことではない。
(勿論アッパーカットという技術を突き詰めれば限りなく奥は深いが)
左手で文庫本を読みながら右手でアッパーを振ることも可能なはずである。
しかし「アッパーの軌道で拳を振る」という動作は、やってみると意外に難しい。
体重がうまく乗らないのである。
ワークショップで、未経験からいきなり鋭いアッパーが振れる女の子に、僕は出会ったことがない。
その人(人々)にとってはさして難しくないことが、僕にとってはとても難しい。
生活の中に、その動作が入っていない。
ということが言いたくて、アッパーカットの喩えを出した。
打てる人たちは「大騒ぎするようなことじゃない」と言う。
その「位置づけの低さ」が、打てない方にとっては余計に高い壁となる。
ところが僕は、結構(人に言わせると異様に)ポジティブで、この度の再開も前向きに捉えている。
「もっと歳取ってからじゃなくて良かった」と。
いつか来るものなら、今で良かった。
先日、台所の天井が崩落したことについても、いつか落ちるなら今で良かったと思えた僕である。
出来事はどんどん起こった方が、地球がびゅんびゅん回ってくれる。