例えば、この前読んでいた本は、
“女性誌が「女性は細い方が美しい」という通念を維持するのに一役買っており、間接的に摂食障害を発生させている”…A
という立場に立っていたが、それに対して、
“んなこと言ったって売れるもの作らないとしょうがない”…B
という反論があり、さらにそれに対して、
“売れさえすれば正義という考え方こそ危険”…C
という反論があり得る。
Aを聞いてからの1秒間に、C(2手先)ぐらいまで考える。
そのぐらいのセルフ討論は多くの人がやっているはず。
何故なら、少なくともB(1手先)までは瞬間的に考えているから、テンポの良い対話があり得るのだ。
ここから導かれるのは二つ。
第一に、D・E、あるいはもっと先まで、瞬間的に考えている人もいるということ。
寡黙な人は、何も考えていないのではなく、考え過ぎて物が言えないのかも知れないのである。
※しかし当然、自分の中でどんなに掘り下げても、結局発言されなければ無意味。
第二に、互いに何手か先まで考えているという仮定に立てば、より高度な討論があり得るということ。
瞬間的にB・Cを共有し、その「確認」さえ済めば、速やかに次のステージに行くことができる。
平和維持について、大雑把に言えば、武装と非武装の二つの立場がある。
テレビなんかを見ていると、両者、BとCを延々と繰り返してばかりいる、という印象。
互いに「自分の反論Bに対して相手はCという反論を持っている」と承知の上で話せば、並行線は避けられるのにと思うのである。
先読みが過ぎると、視聴者にはわかりにくいかも知れない。…B
わかりやすさばかりを優先していては表層的な議論しかできない。…C