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2015年03月30日

かめ先生

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アレクサンドリアの図書館について勉強中。
賢者に教わるかのような。
posted by 森山智仁 at 23:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 日々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月29日

映画:ジェームズ・マーシュ監督作品『博士と彼女のセオリー』

ジェーンが身勝手な人だと感じてしまった。
「最善を尽くした」という言葉が独善的過ぎる。
だってあなたキャンプの時もぞもぞしてたじゃないのよ。
「最善」の一言のせいで、三番目の子供のことも疑わしくなった。
そりゃ彼女なりの「最善」だったのだろうけど。

ジェーンも研究者であるという印象付けが少し弱かったのでは。

序盤、引き込まれなかった。
二人の惹かれ合いがあんま素敵だと思えず。
神についての話も平行線のままだったし。
だから結婚も何だか軽い感じがした。
面白かったのは中盤、ジョナサンが登場して以降。

博士の研究がどういうものなのか、もっとわからせてほしかった。
豆とポテトみたいな表現で、概要を楽しく伝える方法はあったはず。
(ただ豆とポテトのところはそれを使う必要性がなかった)
ALS関係の描写は克明で素晴らしいのに、科学者としての説明が雑。

エンドロールが良かった。
宇宙のような人体のような。

mv.19
posted by 森山智仁 at 09:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月28日

あーん

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はー、かわいい。
posted by 森山智仁 at 22:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 日々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月27日

映画:アレハンドロ・アメナーバル監督作品『アレクサンドリア』

大変優れた映画だと思う。
細部まで作り込まれていて見応えがある。

ただ、事実であるとは言え、こんな思いっきりキリスト教を悪者扱いして大丈夫なんだろうか、と心配になった。
「批判する要素がある」どころではない。
陣→ドロ強→エンハンスぐらいの全力パンチ。
衣装「黒」揃えだし。
わかりやすくていいけど。

mv.18
posted by 森山智仁 at 17:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

読書:筒井康隆『残像に口紅を』

すごい作品だ。
本当にすごい。
やばい。

使用できる「五十音」が少しずつ減っていくのである。
作品世界から消失し(忘却される)、地の文でも使えなくなる。
例えば「あ」が消えると、アイロンは消え、「阿呆」と言えなくなる。

で、どこどこまでも行く。
かなり減っても結構読める文章になっているから大変感心する。

筒井康隆をしばらく追いかけてみたい。

bk.18
posted by 森山智仁 at 15:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

映画:平田オリザ原作『幕が上がる』

十数回泣いた。
青春過ぎ。
乾き切った大地に雨が染み込むようだった。

強い違和感を覚えたのが一カ所。
吉岡先生(黒木華)が窓開けて髪ほどいて実演して見せるところ。
黒木華の演技が悪いとかじゃなくて演出が悪い。
感動的な演技が始まったとまったく思えなかった。
なぜ俳優の力だけで勝負してしまったのか。
映画なんだから、ヒロインたちの目にどう見えているかを見せるべき。
引いちゃっているようにさえ見えた。

mv.17
posted by 森山智仁 at 15:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月24日

読書:森政弘『ロボット考学と人間 -未来のためのロボット工学-』

<またお断りしておきたいが、本書の元は連載という、いわば毎回読み切りの姿勢で執筆したものゆえ、重要事項についてはダブっている箇所もあろうと思われる。
出版界ではダブりが嫌われていることは熟知しているが、仏教の世界では、ダブりを嫌うどころか、同じことを百万遍繰り返すことが重要視されているのである。
ゆえにダブった箇所に出くわされても、それは重要点と観て謙虚に学び直すつもりになって頂きたい。>


とのことであったが、該当部分は斜め読みさせていただいた。

具体的な技術(技道)・体験の部分は面白い。
仏教の話も頷けはする。

著者は日本のロボット工学のパイオニアで、ロボットコンテストの創始者でもある。
ロボコンと言えば、高橋智隆さんの『ロボットの天才』の以下の一節が心に刻み込まれている。

<これまでも「ロボコン」のようなロボット競技イベントはあったが、参加者が楽しむためのものであり、部外者が見て楽しいものではなかった。
そんな競技を公共の電波で放送してしまうから、ロボットやロボット研究者に対するある種の偏見のようなものが生まれていた。
今でも「ロボット作ってます!」と言ってモテることは難しいだろう。>


僕は部外者目線で見て楽しいと思うのだが、ここで言われていることも一つの真理である。
年に二回ビッグサイトに集まる人たちと根本的に位置づけは同じ。
他人からどう見られても構わない民族。

高橋さん自身はイケメンで(多分ご本人もそうあろうとしている)、ロボコンやってる高専生たちの「髪型のダサさ」とかが許せないのだろう。
というか僕も演劇とかやってるし普段髪とか服とかまるで気にしないからきっと軽蔑される。

森さんは、高橋さんのような人こそ仏教を学ぶべきだと思うだろうか。

本の主題とは全然関係ないが、日本を代表するロボット技術者二人の人間性の違いがひどく印象に残ったのであった。

bk.17
posted by 森山智仁 at 07:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月23日

観劇:木ノ下歌舞伎『黒塚』

堪能した。
人にオススメしたい舞台。

ただ、見ていく中で少しずつテンションが下がっていってしまったというのはある。

序盤は歌舞伎を「解体」(強く言えば揶揄)する要素が随所にちりばめられており、大いに笑わせていただいた。
しかし中盤から終盤は結局「敬意」が勝ると言うか、優等生な感じだった。
この着替え見る必要あるかな、とか、いつ終わるんだろう、と思った。
カーテンコール、ダブルまでは素直に手を叩けたが、トリプルにはついていけなかった。

音響が大変丁寧に作り込まれていて感動した。

st.10
posted by 森山智仁 at 17:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 観劇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月22日

読書:池波正太郎『剣客商売 二十番斬り』

池波正太郎の文章を読むのはこれが初めてではない。

どうして食の描写があんなにおいしそうなのか。
ひとえにこれは、メニューのセンスなのではないかと思う。
見た目や香りや味、五感をフルに使って描写して……いない。
メニューが書いてあるだけ。
ただひたすらにメニューの選び方が良いのである。

おはるの存在がファンタジー。
亡き妻は愛した。
そんで今は超健気で若い妻がいる。
中高年男性の願望のかたまり。
ちょっとひいてしまう。

有名な事件が出てくると、一気に世界が立体化する。
ただの江戸時代のまちかどであったのが、座標が明確になる。
自分の老いと徳川幕府の老いを掛けている構成も見事。

テレビドラマの時代劇として絵を想像していたので、殺陣のえぐさに驚いた。
手足吹っ飛んだりするのね。

bk.17
posted by 森山智仁 at 09:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月21日

私という物体

「私」とはどこまでが「私」なのか?

タイムトリップものにおいては大抵「着ている服」までが一緒にワープする。
社会学的に見れば服装は大きな役割を果たしていると言えるが、生物学的には服を含めて人間の肉体と考えるわけにはいかない。

では「裸体」が「私」なのか?
これも突き詰めて考えるとあやふやな部分が出てくる。
人間の肉体は、新陳代謝を繰り返していて、一定ではない。
「今ここにある皮膚」は自分の一部だと思えるだろう。
だが「老朽化した皮膚=垢」も自分の一部だと思えるという人はあまりおられまい。
では「どのぐらい」老朽化したら自分の一部ではなくなるのか?

そもそも、老朽化していない部分はどうやって結びついているのか?
なぜ人間の足は突然もげたりしないのか?
どうしてある日急に砂のようにバラバラの細胞たちになってしまわないのか?
ちょっと調べたら「カドヘリン」というタンパク質のおかげらしい。

ところで。
こんなことを考えるきっかけになったのは万有引力の問題である。
全ての物体に万有引力が備わっているという。
では、「物体」とは何だろうか?

物理学の定義では「一体にまとまった質量の集合」だそうだが、「どのぐらい」まとまっていればいいのか?

鉛の玉一つならいかにも「一つの物体」という感じがする。
だが人間の肉体で考えると何だかよくわからなくなってくる。
万有引力の法則でいくなら、「私」もそれを持っているわけだが、「私」の範囲が曖昧なのである。
「今にも抜けそうな髪の毛」の持つ引力は「私」の引力の一部なのか、そうでないのか?
どのぐらい結びついていたら「一つの物体」になるのか?
「心臓」と「その隣の肉」は、接しているが、接着されてはいない。
接着されてしまったら困る。
「私」を一つの物体と見なす際、接着されていないもの同士も「その一部」と見ているわけである。
とするならば、「物体」を定義する際、接着が条件とはならない。

私の胃の中の空間上に浮遊するはずの酸素の分子は「私の一部」か?
胃から出る空気が「げっぷ」である。
胃の中の空気を私の一部と認め、げっぷを私の一部と認めないとする。
その場合「どこまで上がってきたら」げっぷなのか?

このように、疑いに疑って、最後に残った一点は揺るぎなく「私」だろうか?
そんなものは本当に残るのか?





そういうことも今の時代、Yahoo!知恵袋で訊いちゃえばいいのかも知れない。
posted by 森山智仁 at 21:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 日々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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