「ならぬことはならぬものです」
会津藩校日新館伝統の“什の掟”はこう結ばれている。
正論である。
いや論とかじゃない。
1+1が何故2なのか、その議論を飛ばさなければ数学は始まらない。
発明王エジソンの母は、息子の「なぜ?」に対して、
決して怒らず、本人が納得するまで付き合ってやったというが、
「なぜ人をいじめてはいけないか?」
その問いに答えてやったらお前は何王になるんだ?
「ならぬことはならぬ」
この言葉は、生きている。
屁理屈を蹴り飛ばすような気迫に満ちている。
が、この“言葉そのもの”は、決して切り札にはなり得ない。
いじめ問題の注目度が急上昇している今、
例えばどこかの教室で、
ある教師が、
会津の歴史を紐解きつつ、
「ならぬことはならぬものです」
と語りかけたとしよう。
テレビ的にはキレイにまとまっている。
しかし実際は何の意味もない。
その教室に、
まさに今いじめを行っている生徒がいたとして、
そいつは頭の中でこう思うだろう。
「は?
なにいきなりwwwww
こわいんですけどwwwww」
幼年期、毎日、子供同士で暗唱したからこそ、
什の掟は有効だったのである。
10歳が8歳に言い聞かせたからこそ意味がある。
信用もしていない教師にある日いきなり言われてもまず心には響かない。
「ならぬものはならぬ」
一見、力強い。
だからこそ無様に虚空を斬る羽目になる。
故に、僕は思う。
不用意に引用などしないでいただきたい。
使うならせめて、
「昔、会津の人はこう言いました」
というような前置きを完全に無しにしていただきたい。
自力で、腹の奥底から吐き出して、初めて相手に届き得る言葉である。