ならば10回目はウラが出る確率が高い。
そんなわけない。
ということを僕らは知っている。
何度投げたって確率は1/2だ。
しかし僕らはどうしてそれを信じられるのだろうか?
考えてみれば不思議だ。
コインの実験を繰り返せばいつか体感できるかも知れないが、
言葉では「だってそうだから」という説明しか受けられない。
ウラが出る確率は1/2。
偶然はいくらでも続く可能性があり、
どんな事象がその前にあっても、
次の試行には影響しない。
これをもはや宗教であり、恋愛である。
信じることでしか始められないが、信じてもらうまでが難しい。
オーストラリアのアボリジニは、
見よう見まねで四輪駆動車の修理の仕方を覚えてしまうという。
目に見え、なおかつ必要なことなら、人はすぐに学習できる。
しかし目に見えず、必要でもないものを、人はどうやって受け入れるのだろう。
例えば「クジ引きで一番を引く為に」、
順番待ちの行列に割り込むおばあさんがいたとする。
何番目に引いても同じなんですよと、
小一時間で彼女に理解してもらうことはできるだろうか?
彼女は既に「早く引いた方が有利」と堅く信じているのである。
邪馬台国に乗り込んでいって、
後の世の人類が積み上げた知識をバンバン伝えられるとした時、
一番伝えるのに苦労するのがこの確率論ではないかと、
そんなことをふと思った。