2008年01月31日
2008年01月29日
落無者公演終了
当然のように寝過ごして高尾駅。
さらに昨日今日はほとんど寝て過ごした。
2008年01月27日
京王片倉駅盗難事件
朝慌てててて鍵をかけなかったから、
自業自得だ。
自業自得だけど、
返してほしい。
困るんだ。
2008年01月26日
書き置き
「だが忘れるな。その時は、
たとえこの世の全てを敵に回しても、
お前の頭蓋を砕く。
俺は殆どその為だけに拳を鍛えている」
たとえこの世の全てを敵に回しても、
お前の頭蓋を砕く。
俺は殆どその為だけに拳を鍛えている」
(『ドン・キホーテの敵意』)
2008年01月24日
2008年01月21日
意図的に間違える
例えば「すごい大きいです」は間違っている。
それを言うなら「すごく大きいです」が正しい。
それでも僕は敢えて、
「すごい大きいです」と書くことがある。
言うなれば日本語の乱れを助長している。
ちなみに例文がこれなのも、わざとだ。
2008年01月20日
人の頭の中
さっきちょっと腹が痛かったんだけど、
そういう時はただひたすら腹いてーとしか考えてない。
こないだ近い将来ダムに沈む町を歩いた時は、
膝いてーやべーマジ膝いてーとしか考えてなかった。
本当に何も考えてないことも結構ある。
僕の人生はこんなことでいいのだろうか。
2008年01月18日
池袋わが町
《訳注》
最後に進行係は、これまで舞台に展開されてきたことが、古き良き時代のアメリカの生活の「再現」ではなく、単なる虚構であり、芝居であることを再び観客の心に植えつけようとしている。
しかし常に『わが町』は郷愁をそそるような劇として誤解され、皮肉なことにそのようなものとして親しまれてきた。
『わが町』の五十周年記念公演に関する記事を、メル・グソウは
「アメリカの戯曲の中で、『わが町』はおそらくもっとも誤解され、過った解釈をされてきた作品である。
これはよく思われているように、今世紀の変わり目の小さな町に対する賛歌などではない」
(ソーントン・ワイルダー戯曲集1/鳴海四郎訳『わが町』)
この『わが町』に想を得て書かれた作品が、
池袋の新劇場あうるすぽっとで今年上演されるらしい。
今から非常に楽しみだ。
2008年01月17日
演出家の仕事
「演劇がどんなに好きであっても、俳優に向いていないことがあります。
もちろん、三年間は俳優になるためのレッスンを続けていくわけですが、…(中略)…
また、演劇の仕事を断念し、故郷に戻る人もいるでしょう。
しかし、その場合でも、その人たちが故郷に帰って、いい観客になる。
もちろん演劇を教える教師を志す人が出るかもしれない」
(栗山民也『演出家の仕事』岩波新書p.165)
養成所のことはよく知らないが、
「俳優に向いていない人」が「演劇を教える教師」になっていいのだろうか。
教える方が向いているということもあるのかも知れないが、
僕はあんまり教わりたくない。
頷けるところも少なくはなかった本だけれど、
ここを含め、幾分か疑問が残った。
もちろん、三年間は俳優になるためのレッスンを続けていくわけですが、…(中略)…
また、演劇の仕事を断念し、故郷に戻る人もいるでしょう。
しかし、その場合でも、その人たちが故郷に帰って、いい観客になる。
もちろん演劇を教える教師を志す人が出るかもしれない」
(栗山民也『演出家の仕事』岩波新書p.165)
養成所のことはよく知らないが、
「俳優に向いていない人」が「演劇を教える教師」になっていいのだろうか。
教える方が向いているということもあるのかも知れないが、
僕はあんまり教わりたくない。
頷けるところも少なくはなかった本だけれど、
ここを含め、幾分か疑問が残った。
2008年01月16日
信じるか信じないかはあなた次第
タイトルの一文は、最近かちょっと前に流行ったある本の帯である。
キャッチコピーかサブタイトルかはわからないが。
これを見て違和感を覚えるのは僕だけだろうか。
「信じる」は「歩く」とか「投げる」と違って、
心の中だけで完結する(強制できない)行動だから、
「あなた次第」なのは当たり前過ぎる。
自明の理を文章にしてはいけないわけわけではないが、
自明の理のつもりがなく、決めゼリフみたいに言うのは恥ずかしいと思うのだ。
少なくとも僕は恥ずかしくてしょうがない。
という話を友達(舞台仲間)にしたら、
そんなこと考えてるのはお前だけだと言われた。
しかしこういう感覚については、
「耳」のある人間が徹底的に気にしていかないと、
コトバの未来は暗い。
大衆が気にしないからでは済まない。
と多少の自負と共に考えている。
閑話休題。
(本来は元の話題に戻るという意味らしい。
でも「本来の用法」に拘り過ぎるのはどうかと思う。
僕が言うのは「正しいニホンゴ」というよりは、
生活のレベルと言うか、センスの問題だ)。
小劇場の醍醐味は舞台と観客の一体感だとよく言うが、
その一体感を生み出しているのは何だろう。
少なくとも客イジリではない。
「迫力のある演技」でもない。
観客が共感することの他にはないと僕は思う。
共感は共鳴じゃなくてもいい。
とにかくその作品の思想を受けて、脳が平時より高速で回ればいい。
すなわち、毒か薬でなければならない。
その人・その人たちにしかできない、独特な話を聞きたい。
が、独特であることと共感されることは、パッと見では対立しているようでもある。
僕が覚えたあの文章への違和感は、
(「独特」のつもりはないのだが)
その時の友達には共感されなかった。
舞台なら失敗である。
独特なものは共感は得にくいかも知れない。
けれども、それでもやはり独特でなければならない。
というのは、独特でなければ本当の意味での共感は得られないからだ。
誰にでも言えることを言っても、
殆どの場合相手は既に「どこかで聞いたことがある」。
そういう場では間違いなく何人かの観客が寝ている。
自分の中に既にあるものを、お互い平和に確認し合うことではなく、
自分の中にまだないものを与えられ、
揺さぶられることこそ「共感」ではないだろうか。
これは共感という単語の本来の意味ではないだろう。
しかし、僕が稀に出会うアレはやはり共感と呼ぶべきものだ。
恐らく「未知のものを発信しようとする気概」そのものに「共感」したのだと思う。
キャッチコピーかサブタイトルかはわからないが。
これを見て違和感を覚えるのは僕だけだろうか。
「信じる」は「歩く」とか「投げる」と違って、
心の中だけで完結する(強制できない)行動だから、
「あなた次第」なのは当たり前過ぎる。
自明の理を文章にしてはいけないわけわけではないが、
自明の理のつもりがなく、決めゼリフみたいに言うのは恥ずかしいと思うのだ。
少なくとも僕は恥ずかしくてしょうがない。
という話を友達(舞台仲間)にしたら、
そんなこと考えてるのはお前だけだと言われた。
しかしこういう感覚については、
「耳」のある人間が徹底的に気にしていかないと、
コトバの未来は暗い。
大衆が気にしないからでは済まない。
と多少の自負と共に考えている。
閑話休題。
(本来は元の話題に戻るという意味らしい。
でも「本来の用法」に拘り過ぎるのはどうかと思う。
僕が言うのは「正しいニホンゴ」というよりは、
生活のレベルと言うか、センスの問題だ)。
小劇場の醍醐味は舞台と観客の一体感だとよく言うが、
その一体感を生み出しているのは何だろう。
少なくとも客イジリではない。
「迫力のある演技」でもない。
観客が共感することの他にはないと僕は思う。
共感は共鳴じゃなくてもいい。
とにかくその作品の思想を受けて、脳が平時より高速で回ればいい。
すなわち、毒か薬でなければならない。
その人・その人たちにしかできない、独特な話を聞きたい。
が、独特であることと共感されることは、パッと見では対立しているようでもある。
僕が覚えたあの文章への違和感は、
(「独特」のつもりはないのだが)
その時の友達には共感されなかった。
舞台なら失敗である。
独特なものは共感は得にくいかも知れない。
けれども、それでもやはり独特でなければならない。
というのは、独特でなければ本当の意味での共感は得られないからだ。
誰にでも言えることを言っても、
殆どの場合相手は既に「どこかで聞いたことがある」。
そういう場では間違いなく何人かの観客が寝ている。
自分の中に既にあるものを、お互い平和に確認し合うことではなく、
自分の中にまだないものを与えられ、
揺さぶられることこそ「共感」ではないだろうか。
これは共感という単語の本来の意味ではないだろう。
しかし、僕が稀に出会うアレはやはり共感と呼ぶべきものだ。
恐らく「未知のものを発信しようとする気概」そのものに「共感」したのだと思う。


